本サイトの趣旨:

物語文化とインドネシアの天女伝説

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1-1. 人間と物語

人間は「物語る動物」と言われている。太古から我々は、過去、現在、そして未来を物語ることで、絶えず自分の存在を確認してきた。物語とは、自己と世界の関係を言葉の糸で編み上げる、人間に授けられた無限の想像力であろう。

物語とは、この漠然とした世界のなかで自らの身を包むための衣のようなものである。そこで人間は、世界を物語の織物で満たすために、様々な技術や道具を発展させた。語りで受け継がれる物語や書物として綴られた物語は、人間の知性が生み出したオラリティ(口承)とリテラシー(文字表現)の文化である。同時に人間は、自然界にも文化記憶を埋め込むため、聖地や宗教施設といった「物語の場」をも造り上げてきた。こうした人間を支える物語への強い意志は、近代以降の印刷本、写真、映画などの複製技術や、通信・移動技術の発展とともに、地域社会を超えた世界規模での物語の還流を生んだ。現代に生きる我々は、高度情報化社会の多元的な想像力とリアリティの網目の中で、自分と世界をつなぐ場を移ろいながら、今も物語りを続ける。そして多種多様の物語をめぐり、無数の共感と対立が、国境を越えて繰り広げられている。こうした今日の物語の氾濫のなか、このウェブサイトは「天女物語」を磁場に世界の人々を新たな形態でつなぐ目的のもと、下記の研究プロジェクトの一環として制作された。

 

[制作者] 野澤暁子 (所属機関:名古屋大学人文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター、南山大学人類学研究所、総合地球環境学研究所)

 

[助成] 科学研究費補助金助成研究・基盤研究C「ヒンドゥー・ジャワ文化遺産の統合アーカイブ構築:天女説話表象の相関性を可視化する」(代表研究者:野澤暁子、助成番号: 23K00235)

 

[プロジェクト協力]

1)   天女聖地調査(東ジャワのマップ制作)

Nasution, M.Hum., M.Ed., Ph.D. (Universitas Negeri Surabaya)

Septina Alrianingrum, S.S., M.Pd.

Aditya Indrawan, S.S., M.Pd.

 

2)   スリ・タンジュン詩歌復興プロジェクト

I Made Agus Tisnu, S. Pd. H. and Sekolah Bali Q_ta

I Kadek Widnyana, S. Si., M. Si (ISI Denpasar)

Ni Komang Sekar Marhaeni, SSP., M.Si (ISI Denpasar)

 

[制作協力]上田智樹、PT Tesna Indo Laut

[英語版校正] Cambridge English Correction Service

[インドネシア語版校正] Fahrizal Basanto Ramadhan, S.I.P.

 

 

1-2. 背景:天女説話スリ・タンジュンの多様な伝承媒体

本ウェブサイトは、現代における物語文化の新たな理解の輪を広げるためにつくられた、「つながりの場」である。その中心となるのは、本ページの制作者・野澤暁子が研究テーマとして扱う「スリ・タンジュン物語」である。この物語は、インドネシアのジャワ島東部とバリ島で11~14世紀ごろに広まった、アジア各地に数多く伝わる天女伝説の一つである。まずスリ・タンジュン物語は、インドネシアの伝統的な貝葉文書ロンタルに詩歌として記された。儀礼歌として歌い継ぐためである。また、中世の石像寺院チャンディの浮彫壁画にもその一場面が彫り込まれた。人間の男と天女の化身との結婚、そして死と再生を語ったこの物語は、当時の地域社会に重要な意味をもっていたと考えられる。ジャワの地域社会では、大衆演劇の題材ともなった。さらに近代以降は、印刷本や絵本としても普及された。こうしてスリ・タンジュン物語は、時代や地域によって様々な媒体と形態を通じ、生成、消滅、そして再生を繰り返してきた。それらは根底においてつながりながらも、形としては別々に存在する。そこで今日の情報技術をふまえて着想したのが、スリ・タンジュン物語という「一つの物語」と人々が織りなしてきた「多様な想像的実践」をデジタル空間のなかで有機的に結びつける、芸術文化人類学的メディア実践である。

 

1-3. 目的

本サイトの第一の目的は、スリ・タンジュン物語をめぐる文化記憶の文字情報と視聴覚情報とを連結させ、中世ヒンドゥー・ジャワの文化遺産のネットワークとして提示することである。なかでも焦点とするのは、貝葉写本ロンタル、印刷本、そして視聴覚メディアという三種の媒体の特性である。ロンタルに詩歌として記されたこの物語は、1938年のオランダ植民地時代にジャワ人文学者プリヨノによって印刷本にローマ字転写された。こうして儀礼歌を吟じるためのテクストであったスリ・タンジュン物語は、「読み物」へと変化した。そこで筆者が実施したのが、バリ島の伝承者とともに本来の韻律詩の口承技法を復活させる映像プロジェクト『Wukir/Adri節の謡い方』である。したがって本サイトではメディア論的視点から、情報の複層的な関連付けが可能なデジタル空間の特性を活用し、歴史の縦軸・横軸におけるスリ・タンジュン物語の多様な伝承形態を提示する。

第二の目的は、スリ・タンジュン物語の背後にある羽衣伝説の超地域的な分布を幅広く共有することである。この物語はインドネシア各地に伝わる様々な天女説話に含まれる他、日本を含むアジア各地に伝承される昔話とも共通性をもつ。多くの人たちは、自分の地域に伝わる昔話が大きなつながりの中にあることを知らないであろう。その一つの原因は、メディアの問題である。これまで多くの民間説話に関する研究が出版されてきたものの、それらは特定の言語による印刷本であったため、一部の言語圏での限られた流通にとどまった。したがって本サイトはこうした印刷本という旧来のメディアと言語による壁を乗り越えるため、日本語、英語、インドネシア語の三か国語版で制作した。世界中からアクセス可能なインターネットの特性をいかし、スリ・タンジュン物語を中心とする羽衣伝説の「共感の輪」を広めることで、世界の豊かな繋がりに寄与したい。