スリ・タンジュン物語とは

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5-1. 現存する手写本(バリと東ジャワ)

スリ・タンジュン物語の最初の本は、インドネシアのヨグヤカルタ出身の文学者プリヨノ(Prijono)がオランダ語で著したSri Tañjung: Een Oud Javaansch Verhaalである。この本が登場する以前、スリ・タンジュン物語に関しては二種類の手写本が残されていた。一つは、バリ島で発見され、現在ライデン大学図書館に収蔵されている貝葉写本ロンタルである(バリ文字による中期ジャワ語で記されている)。プリヨノの著作はこのバリ由来の手写本のローマ字転写と翻訳を主とするが、実際には複数の写本から構成されている(6-3)。もうひとつはジャワ島東部のバニュワンギで発見された、紙冊子に記された手写本である。これはアラビア文字による新ジャワ語で記されており、かつて東ジャワのブランバンガン資料館(Blambangan Museum)に収蔵されていた(現在は所在不明)。この写本を扱った研究として、Anis Aminoedinを代表とするジャカルタの研究グループの著書(Aminoedin et al. 1986)と、東ジャワの研究者Wiwin IndiartiのE-Book(Indiarti 2020)がある。

では、スリ・タンジュン物語はいつどこで誕生したのだろうか?現在は、この物語が東ジャワのバニュワンギ発祥であるという説が広く定着している。この説を最初に文章化した研究者はプリヨノである。ただし彼が根拠としているのは、19世紀の植民地学者の言説である (6-3項を参照)。バリの貝葉写本と東ジャワの紙冊子という二つの資料からこの物語の発祥地を特定するには、さらなる研究が必要であろう。明らかなのは、この物語がイスラーム到来以前のジャワ島東部とバリ島の領域で広まっており、当時の人々の心において重要な意味をもっていたことである。この観点から、スリ・タンジュン物語を中世ヒンドゥー・ジャワ時代の文化遺産の一つととらえ、各地域でのさまざまな伝承を尊重する姿勢が大切であるといえる。

 

5-2. 物語の概要

プリヨノの著作Sri Tañjung: Een Oud Javaansch Verhaalでは、オランダ語の散文形式でバリ島由来のロンタルのスリ・タンジュン物語が以下のあらすじにまとめられている。

 

  1. シンドゥラジャ王国のスラクラマ王の家臣シダパクサは、王の命令で頭痛に効く薬草を求めて山麓部の修験場プランガラスを訪れる。そこでシダパクサは、聖者タンバペトラの養女スリ・タンジュンの美しさに魅了され、恋に落ちる。スリ・タンジュンは女神の娘として、天界と俗世の境界にあたるこの修験場で聖者に仕えながら生活していた。シダパクサはスリ・タンジュンに求婚し、妻として都に連れて帰る。
  2. その後都では、シダパクサが絶世の美女を娶ったことが話題となる。その噂を聞いたスラクラマ王は嫉妬心を覚え、陰謀をはかる。それは、天界に住む神々の三つの宝を手に入れよという指令であった。王の命令を受けたシダパクサは、術がわからず途方に暮れる。それを見た妻スリ・タンジュンは、天界の父から譲り受けた「空を飛ぶことのできる魔法の羽衣」をシダパクサに差し出す。シダパクサはさっそくその羽衣をまとい、天界へと旅立つ。
  3. シダパクサが都を発ったことを知り、スラクラマ王は計画通りスリ・タンジュンのもとを訪れ、様々な手口で誘惑を試みる。しかしスリ・タンジュンが頑なに拒絶したため、屈辱を感じた王は宮廷に引き返す。一方で天界に到着したシダパクサは、聖者タンバペトラが遣わした神々の助けによって王が求めた三つの宝を手に入れることに成功し、達成感とともに都に舞い戻る。
  4. シダパクサは王に謁見し、三つの宝を差し出す。しかし王はその偉業を褒めたたえるどころか、スリ・タンジュンが夫の不在中に不貞をはたらいていたという嘘を教える。大きな衝撃をうけたシダパクサは急いで家に戻り、スリ・タンジュンを激しく責め立て、故郷に戻れと告げる。スリ・タンジュンは無実を訴え続け、二人の愛がこのような結果になるのであれば、いっそのこと私を殺して苦難から解放させてくださいと請願する。
  5. 行き詰った二人は、森の墓地ガンダマユに向かう。スリ・タンジュンは跪き、シダパクサに向かって「もし私が潔白であれば、私の血は良い香りがするでしょう」と辞世の言葉を告げる。事実、シダパクサの短剣によってスリ・タンジュンが息を引き取った直後、その体から流れる血から芳香が漂ったのである。その香りに己の罪を悟ったシダパクサは、絶望とともに泣き崩れる。
  6. スリ・タンジュンの魂は死の世界にたどり着く。そこでまず目にしたのは、大河だった。スリ・タンジュンが戸惑っていると、異形の頭部をもつ一匹の白いワニが泳いでいる。スリ・タンジュンが「どうやって渡ればよいか分からないので、教えてください」と話しかけると、ワニは水面から顔を出し、「私があなたの鉄の橋となります」と答えた。スリ・タンジュンがその背を渡って向こう岸の「揺れる橋」にたどり着くと、ワニは去る。
  7. スリ・タンジュンはその橋を渡りながら、冥界の不気味な獣たち、そして無限地獄に苦しむ様ざまな罪深き魂たちの姿を目のあたりにした。そして必死の思いで橋を渡り切り、冥界の女王ドラカラの住む門にたどりつく。だがドラカラはスリ・タンジュンの無実の死を知っており、情けの言葉をかける。そして頓智問答に満足の答えを返したスリ・タンジュンの賢さに驚愕したドラカラは、「あなたはまだ死ぬべきでない」と言い渡し、スリ・タンジュンの魂を地上に送り返す。
  8. 森の墓地ガンダマユの遺体に魂が戻る。そこへガンダマユを支配する女神が現れ、「昔あなたの父は、自ら木に縛り付けられて死の危機に瀕しながらも、妖怪の姿となった私を救ってくれました(註)」と告げ、スリ・タンジュンの生命を復活させる。
  9. 光り輝く美しさとともに蘇生したスリ・タンジュンは、召使の魔女カリカの同伴とともに故郷のプランガラスに戻る。スリ・タンジュンは涙の再会とともに、タンバペトラをはじめとする家族にこれまでの一部始終を打ち明ける。深く同情したタンバペトラは誠心誠意をこめた浄化儀礼を行う。そしてスリ・タンジュンは天界のどの天女よりも美しく神々しい姿となる。
  10. 一方、罪悪感と絶望で精神錯乱状態となったシダパクサは、スリ・タンジュンと最期の時を過ごしたガンダマユを訪れる。そして自分の命をスリ・タンジュンの魂に捧げんと、暗い森に身を投げ出したまま死を待ちつづける。その姿に深く哀れみを覚えたガンダマユの女神が、シダパクサのもとに表れる。女神はスリ・タンジュンが再生したこと、プランガラスに戻ったこと、そしてスリ・タンジュンが女神に「スラクラマ王が殺されたら、私はシダパクサと再び結ばれてもよい」と告げていたと伝える。それを聞いたシダパクサは驚きととも正気に目覚め、女神に最大限の敬意を表した後、プランガラスへ向かう。
  11.  シダパクサの到着を聞いたスリ・タンジュンは動揺する。再会を強く願いながらも寝室で臥せって泣き濡れながら、母スリ・ワニを通じて祖父タンバペトラに「王の首に私の足を乗せることができたら、彼に再会します」と伝える。タンバペトラからそれを聞いたシダパクサは自分と妻を裏切ったスラクラマ王の悪に立ち向かうため、プランガラスの聖者と神々に呼びかけ、魔法の羽衣で都へと飛ぶ。
  12. シダパクサと神々と聖者の援軍は激しい戦いの後、ついに王宮を包囲する。そしてスラクラマ王は敗北を認め、斬首の刑を受ける。王の首は黄色い布に包まれて棺に入れられる。そして都ではシダパクサが王に即位するであろうという噂で騒然となる。

 

バニュワンギで発見されたアラビア文字で記された紙冊子のスリ・タンジュン物語についてはアミヌディンらの研究に詳しいが、イスラーム教の概念が随所にみられるといった相違点が認められるものの、概ねの内容は一致している(Aminoedin et al. 1986)。また、現在ジャワの演劇(クトプラ)や絵本などで伝えられるスリ・タンジュン物語は、最後の残酷な場面を割愛ないし改編しているものが多い。多くの羽衣伝説の冒頭箇所にみられる天女の水浴びと隠された羽衣の場面はないが、スリ・タンジュンが天女と王族の娘であり、家宝の羽衣を夫に授けるといった一連の描写から、この物語も羽衣伝説の傍流に属すると解釈してさしつかえないであろう。

 

(註) これはジャワ東部とバリに伝承されるスダマラ物語の一節と考えられている。シヴァ神の怒りによってガンダマユの魔女ドゥルガーとなった女神ウマが、生贄として差しだされたパンダワ王家の末子サデワの力によって元の美しい姿に戻る話である。サデワが聖者タンパペトラの娘の一人と結婚した結末から、スリ・タンジュンはサデワの娘であったと解釈されている。実際にドゥルガーという名称は使われないが、再生したスリ・タンジュンの帰郷に同伴したカリカという魔女がスダマラ物語でドゥルガーの召使として登場することも理由の一つと考えられる。また、スリ・タンジュン物語に含まれている、サデワが娘のスリ・タンジュンに渡した空を飛ぶ羽衣については、スダマラ物語の中に登場しない。最初にバリ島のスリ・タンジュン写本を収集した言語学者H.N.van der Tuukとその転写・翻訳をしたプリヨノの両者は、スダマラ物語の続編としてスリ・タンジュン物語が生まれたと解釈する(van der Tuuk 1881; Prijono 1938)。

 

5-3. 伝承地域と様式

スリ・タンジュン物語の写本としては、東ジャワの紙媒体の冊子とバリ島の貝葉写本ロンタルの存在が知られている。インドネシアでは、スリ・タンジュン物語といえばバニュワンギの伝承文化として広く知られている。したがってバニュワンギ市内には「スリ・タンジュン公園(Taman Sri Tanjung)」がある他、毎年開催されるバニュワンギ祭り(Festival Banyuwangi)ではスリ・タンジュンをイメージした天女の衣装をまとった女性の群舞や演劇が披露される。中部ジャワのジョグジャカルタと東ジャワのバニュワンギを結ぶ鉄道もスリ・タンジュン号という名称をもつ。

スリ・タンジュンの媒体となる芸能については、東ジャワでは大衆演劇クトプラ(ketoprak)が最も一般的である。アミヌディンらの研究対象となった紙媒体の写本については、アラビア文字で書かれた韻律詩形式のため、ジャワのイスラーム化の後にヒンドゥー・ジャワ時代の儀礼歌キドゥンがイスラーム教行事の中に再文脈化される形で朗詠された可能性がある。だが、その目的や実践主体についてはさらなる研究の余地が残されている。

バリ島の場合も、韻律形式の貝葉写本の特質から、本来儀礼歌キドゥンとしてヒンドゥー儀礼の一環として詠まれていたと考えられる。だがオリジナルの貝葉写本はライデンの大学図書館に収蔵され、オランダ語で書かれたプリヨノの著作もバリの人びとの手の届かない存在であったため、今ではスリ・タンジュン物語は現地であまり知られていない。ただし1960年代に大衆演劇アルジャで数回上演されたという話がある(筆者が2018年にギャニャール県で行った聴き取り調査より)。今日YouTubeでもググリタンという様式でスリ・タンジュン物語がバリ語の詩吟で朗詠された動画をいくつか見ることができる。こうした背景から、スリ・タンジュン物語はバリ島で完全に忘れられたわけではなく、時おり何らかの形で復活する文化記憶として存続しているといえる。2023年に実施したスリ・タンジュン詩歌復興プロジェクト『Wukir/Adri節の謡い方』は、この状況をふまえた一つの試みである(7項を参照)。このプロジェクトで制作したスリ・タンジュン詩歌と子どもたちの演劇を合体させた動画はYouTubeに公開されているため、この媒体を通じてスリ・タンジュンの芸能文化がバリ島で復活する可能性もあるといえる。

 

5-4. 遺跡の浮彫壁画

インドネシアではジャワ島を中心に「チャンディ(candi)」と総称される、イスラーム到来以前に建てられた石造宗教建築の遺跡が点在する。中部ジャワのジョグジャカルタ近郊にあるユネスコ世界遺産のボロブドゥール遺跡やプランバナン遺跡がその代表例である。その中で、東ジャワのチャンディの浮彫壁画には、スリ・タンジュン物語の一場面を含むものがあると言われる。それは、ブリタール県のプナタラン遺跡(Candi Penataran)、モジョクルト県のバジャン・ラトゥ遺跡(Candi Bajang Ratu)、クディリ県のスロウォノ遺跡(Candi Surowono)、プロボリンゴ県のジャブン遺跡(Candi Jabung)の4つである(My Map参照)。

プナタラン遺跡のスリ・タンジュン壁画は、本堂ではなく敷地内にあるプンドポ・テラス(pendopo teras)と呼ばれる長方形の土台の壁面(写真5-1)に含まれている。それは脚を露わにしたまま大きな魚に跨った女性が水辺に表れ、岸部で足を組んで座った男性と対面する構図である(写真5-2)。バジャン・ラトゥ遺跡(写真5-3)についてはスリ・タンジュン物語の一部が彫り込まれているという情報があるものの、小さな浮彫壁画を部分的に含む箇所が高い位置にあるため、今のところ確認できていない。スロウォノ遺跡(写真5-4)のスリ・タンジュン浮彫壁画(写真5-5)は、プナタラン遺跡のように男性の姿はないが、女性が後ろを向いた姿勢で魚に跨っている点で共通する。ジャブン遺跡(写真5-6)のものも、同じ体勢で魚に跨った女性が描かれている(写真5-7)。この中でスロウォノ遺跡に描かれた魚が一番大きく、「悪魔の顔をした」というロンタルの記述(5-2項を参照)を彷彿させる容姿をもつ。

だが、これら遺跡の浮彫壁画については検討の余地も残されている。筆者が2018年にスラバヤ大学で開催されたオランダからの図像学者の講演に参加した際、聴講者の女性から「写本には〈ワニを橋に使ってスリ・タンジュンが川を渡った〉と記されているのに、なぜ〈魚に跨った女性〉が描かれたチャンディの浮彫壁画がスリ・タンジュン物語であると解釈されているのか」という質問があった。結局スピーカーから明確な返答は確認できなかったが、筆者もかねてよりこの疑問を抱いていたため、質問者に大きく共感した。プリヨノが扱ったバリのスリ・タンジュン写本には、第5章の121番と122番(Prijono 1938: 36-37)にその場面が記されており、確かに中期ジャワ語でbajul(ワニ)と記されている。

これら浮彫壁画がスリ・タンジュン物語と関連づけられた経緯については定かでない。管見のかぎり、プナタラン遺跡の浮彫壁画の魚に跨った女性の場面をスリ・タンジュン物語として記述した最も古い著作物は、1967年のSatyawati SuleimanによるMonuments of Ancient Indonesiaである。ただしそれ以前に西洋の文献学者や考古学者の間でこの解釈が共有されていた可能性も多いにある。それをふまえながら、魚に跨った女性が本当にスリ・タンジュン物語の描写であるのか、あるいは中世の東ジャワで広まっていた他の民間説話なのか、あらためて検討することも意義があるだろう。なぜなら、魚とともに水の世界と地上との境界をつなぐこの女性は神話解釈において象徴的存在であるとともに、浮彫壁画に含まれる点でも当時の東ジャワの世界観において重要な意味をもっていた可能性が高いためである。


5-1 プナタラン遺跡のプンドポ・テラス


5-2 プンドポ・テラスのスリ・タンジュンの一場面とされる浮彫壁画

 

5-3 バジャン・ラトゥ遺跡


5-4 スロウォノ遺跡

 


5-5 スロウォノ遺跡のスリ・タンジュンの一場面とされる浮彫壁画

 


5-6 ジャブン遺跡

 


5-7 ジャブン遺跡のスリ・タンジュンの一場面とされる浮彫壁画